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/ MacUser ROM 45 / MACUSER-ROM-VOL-45-1997-08.ISO.7z / MACUSER-ROM-VOL-45-1997-08.ISO / READER'S GALLERY / READER'S GALLERY97⁄8 / 京都府 吉川敦 / かたびっこ / かたびっこ その2 < prev    next >
Text File  |  1997-06-07  |  23KB  |  139 lines

  1.                                                       ☆
  2.  
  3.  夢の中は遊園地だった。
  4.  金銀多彩な色で作られた張りぼてのアーチをくぐったところに立ち、夢の中の僕は空を見上げていた。アーチは巨大なアールで、天気雨の虹のように雲ひとつない晴天を半円に切り、天辺には黄緑色した二、三十の小鳥がさえずりもせず木彫りの置物のように並んでいた。
  5.  どうやらここは遊園地の入り口のようだ。
  6.  風船や綿菓子やポップコーンの屋台、案内係のブース、警備員の詰所が直径五十メートルぐらいの噴水のある池を取り囲むようにして建っている。陽の光にきらめく透き通った水面には黒いスワンと家鴨がぜんまい仕掛けの玩具のように泳いでいる。
  7.  辺りは大勢の人で賑わっていた。色豊かで雑多な人種が色豊かで雑多な服を着、傍らをビラをまくピエロとぬいぐるみを被った行列が華やかなマーチにのり、通り過ぎていく。甲高い小太鼓やラッパ、調律の狂ったアコーディオンや訳の分からない異国の言葉が乱れ飛んでいる。僕は小さな頃買ってもらった外国製の四十六色の色鉛筆を思い出した。
  8.  太陽、踊る光、無邪気な笑い声。幸福の象徴のような風景。
  9.  僕は雑踏と喧騒から逃れるため、右手に見える人工庭園の方へ足を進めた。
  10.  広場から数十メートルも行くと、辺りは静かになった。小道を歩く人も慎ましやかな二、三のカップルだけで、小鳥のさえずりや太陽の陽射しの足音を感じることが出来た。英国紳士風の落ち着いた暖かい空気が僕の頬を撫で、通り過ぎていく。視覚にまで漏れてきそうな勢いの、充満した花弁と緑の匂い。庭園は放射状に小道が作られ何処から入っても中心に行き着くようになっていた。庭園の中心は花時計だった。そして、何故か、長針も短針も秒針もなかった。
  11.  中心を少し外れた芝生の片隅に土を掘り起こした一角があり、そこではひとりの老人が腰を屈め作業をしていた。僕は近寄り、芝生の上に腰を据え、老人を観察した。
  12.  老人は赤いフエルトの膝あての付いたオーバーオールを着、腰に吊した魚篭のようなバスケットの中からひとつひとつ吟味するように形のよい種子を嗄れた手で選んでいた。選ばれた種子は老人の人差し指によって作られた地面の穴に一見、無造作に放り込まれ、埋められた。機敏といえないにしても、動作は長年培われたらしい、ある一定のリズムにしたがっていた。老人の慣れた動作には無駄がなく、ある種毅然とした尊厳のようなものが窺えた。
  13.  僕はしばらくそれを眺めていた。
  14. 「何を植えているのか分かるかい?」
  15.  いきなり、腰を屈めたままこちらを見ずに老人が言った。
  16.  僕は一瞬どきっとし、悪いことをしていたかのように反射的に謝った。
  17. 「すみません。御邪魔でしたら、向こうにいきます」
  18. 「いや、いいよ、気にせんでも。ちょうど、もう休憩しようかと思とったとこじゃから」
  19.  そう言うと老人は腰を二、三度叩き、バスケットに蓋をし、僕の隣に腰を下ろした。
  20.  額には控えめな汗の玉が浮かんでいた。老人は胸のポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出した。ニコチンの固まりのような両切りの煙草だった。火は僕が付けた。
  21. 「何か、分かるかい?」
  22. 「いえ ・・・・・・ 」
  23.  僕は草花音痴なのだ。チューリップとバラの花の区別ぐらいしかつかない。
  24. 「これはな ・・・・・・ 」
  25.  老人は腰のバスケットを小気味よくぽんぽんと叩いた。「人間の種じゃ」
  26.  老人は旨そうに煙を空に向かって吐き出した。雲ひとつない空。ほのぼのとしたおてんと様。時折ぽかぽかとした風がそよぐ。
  27.  怪訝そうな顔をした僕をちらっと見て、どう判断したのか、老人は空を向いたまま喋り始めた。
  28. 「今日中に百人分、植えなきゃならん。昨日は腰が痛みよってさぼってしまったからのう。あと六十六人じゃ。この時期は注文が多くて、忙しいからのう。まあ、収穫期の忙しさに比べれば屁みたいなもんだがの」
  29.  老人は煙を吐き出した。煙を肺に入れてからの時間が長い。肺の中で煙が蓄音機の上のドーナツ盤ように回っているのかもしれない。ひとつひとつの動作が緩慢なのだ。
  30. 「あんた、何処の遊園地の生まれじゃ?」
  31.  僕はどう答えたらいいものやら、困った。
  32. 「そうか、最近の若い者は生まれも分からん輩が多いからのう」
  33.  老人は勝手に頷き、勝手に嘆いた。
  34. 「だが、あんた、薄曇りの日に生まれたな。わしゃ長年、この仕事をやっとるから種を植えた日の天気だけは分かるんじゃ。あんたは薄曇りの日だな、絶対。前の日か次の日にはたぶん雨じゃったろう。種を植える日は神様が定めなさった日と決まっとるから、否が応でもその日の天候が顔に出よる。雨の日には雨の顔、晴れの日には晴れの顔、曇の日には曇の顔。普通の人には分からんだろうが、わしには分かる。不思議なものじゃがそうだ。一度嵐の日に植えたことがある。ほとんどが腐ったり流されたりして駄目になってしもうたが、ひとりだけ生き残ったものがおってな。四十年ぐらい前かの ・・・・・・ 今じゃ、そいつは何とかいう政治家の偉いさんじゃ」
  35.  老人は餅を喉につめたような笑い声をあげ、また煙を吐いた。今にも窒息し息絶えそうな笑い方だった。僕も愛想程度に頬の筋肉を弛ませた。
  36.  老人は一向に構わず話を続けた。
  37. 「わしゃ、物心ついたときからこの仕事をしておる。わしの爺さんの手伝いをしておった。これは天から与えられた尊き仕事じゃ。秋の収穫期に背丈ほどの高さの潅木の枝にぶらさがった赤子を見ると、今でも体が震えるくらい感動する。毎年、もう見飽きた光景のはずなのにな ・・・・・・ 」
  38.  そう言うと老人は視線を下に落とし沈黙した。緑の芝生はきれいに刈り込まれ、雑草はひとつも見当らなかた。小さな糖の欠片を背負った蟻の行進が老人の足元に黒い紐を作っていた。列は途切れることなく緑の中に消えている。芝生は全身で太陽を浴びている。
  39.  指にはさんだ両切り煙草が火傷しそうに短くなると、老人は芝生の上になすりつけ立ち上がった。そして、僕の存在など最初からなかったかのように作業を再開した。変わったのは老人の影が少し長くなっただけ。でもそれは蟻ぐらいにしか分からない程度の。
  40.  僕はまた、しばらくの間、老人の作業を眺めていたが、老人は一度もこちらを見なかった。黙々と単調な作業に熱中していた。
  41.  僕は立ち上がり、人工庭園の奥へと歩いた。
  42.  小道を真っすぐ進むと、庭園は一糸乱れぬ幾何学模様から混濁した様相へと変化した。今までの庭師によって計算し尽くされたかのような芸術作品はアルコール中毒患者のお絵描きになった。二百メートルも行けば、そこはほとんど小さな自然林となった。取り巻く空気までもがひんやりと湿った感じだ。そして僕はとうとう、遊園地と外部とを隔てる塀に辿り着いた。もう、それ以上は進めなかった。行き止まりだった。
  43.  太い鉄の棒で頑丈に作られた背の高い塀は難攻不落の刑務所のようで、完全に外部の侵入者をシャットアウトするように出来ていた。設計者の意図は分からないが、ただの遊園地の塀にしては必要以上に強固な造りだった。
  44.  僕の右手の方、蔓バラが鉄条網のように絡み合っている塀の上方には、見張台がありジャスパー・ジョーンズみたいな迷彩服を着た兵士が機関銃の台尻を抱え、パイプ椅子に座っていた。歳は僕と同じくらいか少し上のように思えた。やる気はなさそうだった。顔の筋肉は弛緩しっ放しで、下手くそな鼻歌混じりに真赤な編みあげの軍靴でリズムを取る。鉄板を叩く甲高い調子っぱずれな音が僕も耳元までうるさく響いた。刈り上げた耳元にはウォークマンのイヤホンの線が覗いている。全くやる気はなさそうだった。
  45.  いきなり、何の前触れもなく、空をつんざく爆発音が駆け抜けた。僕の鼓膜の右から左へ、左から右へ、低周波が通り過ぎた。閃光は一瞬のうちに掻き消え、僕の網膜に残像を残した。最初何も聞こえなかったし、何も感じられなかったが、右足が必要以上に熱くなっていることにまず気付いた。痛みは少し遅れてやってきた。
  46.  塀の向こう側からキャタピラの音がした。残像が薄くなり視界が晴れると、それは映像となって目の前に現われた。艶消の黒い三台の戦車がミニカーのように見えた。
  47.  鉄板のリズムはもう聞こえなかった。兵士の座っていた見張台は跡形もなく消えていた。兵士の残骸は辺りに肉片となり散らばっていた。
  48.  庭園の方から二人の兵士が匍匐の姿勢でやって来た。ひとりは背がひょろ長くゴッホのような迷彩服と黄色い機銃を、もうひとりはスーラのような迷彩服とパステル色の機銃を基本に忠実に抱えていた。二人は徐々に僕に近寄ってくるのだがその歩みは鈍く、どうやら服の汚れを気にしている様子だった。
  49.  背の高い方が僕に向かって叫んだ。
  50. 「大丈夫か!」
  51. 「大丈夫だ ・・・・・・ 」
  52.  僕は痛みを堪え、ようやく、口にしたが二人には聞こえなかったみたいだ。ジーンズの右足の膝から下が赤黒く湿っていた。そしてそれは確実に広がっているようだった。
  53.  二人が僕の傍までやって来た。
  54. 「こいつはひどいや!」
  55.  それは太い方。近くでこいつの迷彩服を見るとまるで無理矢理、色盲の検査をさせられているみたいな気分になる。
  56. 「早く、病院、連れていかなくちゃな」
  57.  次が背の高い方。いやに冷静な言い方をする。
  58. 「奴らひどいな。こんなことするなんて。外の奴はおとなしく外にいろっていうんだ!落後者のくせによう」
  59. 「『我々は君達と同じように遊園地で生まれた。我々には遊園地内で生活を営む権利がある。自由がある。我々と君達とは同じ種から生まれた同輩である』だろ。落後者が聞いて呆れるぜ!」
  60. 「そうだよな!落後者は落後者同士、仲良く外にいろっていうんだ!生かしてもらっているだけでも有り難く思えよな」
  61.  そこで二人は同時に頷きあった。
  62.  僕は痛みがひどくなり、声にならない声のような声を漏らした。赤く熱した鉄の鋳型を押さえ付けているような激痛。心臓の波打つリズムに合わせて、僕の痛みは高まる。
  63.  が、二人はそんなことには気にも留めてない様子で、太い方が酒場でジョークを飛ばすような口調で訊ねた。
  64. 「あんた、変わった軍服、着てるんだな。ちょっとレトロだけど、それ、何処で買ったんだい?」
  65.  僕の服は白い無地のTシャツにブルージーンズだった。Tシャツには点々と鮮血の後染が飛んでいたけれど。 
  66.  背の高い方が小馬鹿にするような言い方で太い方に言った。
  67. 「知らないのか!これ、先月号で特集していた奴じゃないか!先々週の野営のキャンプで俺と一緒に見ていただろう。もう、忘れちまったのかい?」
  68. 「そうだったけ ・・・・・・ 」
  69.  !
  70.  先程と同じような爆撃が僕等を襲った。点描画の兵士の言葉はけたたましい爆音に掻き消され、語尾は何処かにぶっとんだ。それ以上、聞くことは不可能だった。いや、この場合聞かずにすんだ、と言うべきか。閃光と爆音と噴煙が僕の周りをまた戦場に戻してくれたのだ。僕はある意味で助かったのだ。
  71.  ゴッホの兵士は首から上が吹き飛ばされ背が低くなり、スーラの兵士は腹のところに大砲の風穴があき体重が軽くなった。傷口からはあぶくのような血が溢れ、水鉄砲のように吹き出していた。だが、二人の両手は未だ健在で、それぞれ、失われた物を求め空中を無我夢中で泳いでいた。溺れかけた亡霊のように。だが、二人は失われた物を充足することは出来なかった。二対の両手はほとんど同時にねじが切れた。ふたつの胴体は魂を失ったマリオネットのように地面に突っ伏した。
  72.  僕はそこで気を失った。完全に気を失ってしまった。
  73.  意識が醒めると僕は細い金属パイプの簡易ベッドに寝かされている自分に気が付いた。右足の先はぐるぐるに包帯が巻かれていたが、鎮痛剤でも打たれたのか、あまり痛みは感じなかった。僕が目を開け本能的に体を起こそうとすると、看護婦がすぐ飛んできて僕の肩を押さえ、マリア様のような微笑みで優しくシーツを掛けた。ちょっと太めでグラマーでセクシーなマリア様だった。僕は素直にそれに従った。看護婦は透き通る湖面のような声で、先生を御呼びしますと言い、僕の傍を離れた。
  74.  てっきり病院とばかり思っていたのだが、辺りを見回せば、ここは大きなサーカス小屋だった。真ん中に白と赤と青で塗られた円形の舞台があり、一匹の象が玉乗りをしている。天井は高く、ドーム状になっており、空中ブランコが太い柱の両端に各一台ずつと綱渡りのワイヤーが一本ピンと真冬の電線のように張られていた。そしてそれを取り囲むように僕のベッドと同じような形の簡素なベッド群が、本来は客席である段々畑に所狭しと並べられていた。ベッドは満員だった。僕と同じような負傷者達が実験室のマウスのように理論整然と並べられ、シーツにくるまっていた。
  75.  看護婦と一緒にやってきたのは医者ではなかった。白衣も聴診器も注射器も持っていず、消毒液の匂いもしなかった。長くダリのような口髭をたくわえた男は黒い革のニッカーボッカーを穿き、動物の糞尿のコロンをつけていた。男の眼光には妙な威厳があり、風貌がそれをさらに磨きかけていた。右手には年期の入っていそうな黒い鞭を持っていた。看護婦は優しく小さな声で僕の耳元に、団長さんです、と囁いた。
  76. 「どうだね、具合は?」
  77.  男の声はいやに神妙で、言葉にはまったく感情がこもっていない。空々しい言い回しに、僕は余りいい印象を持てなかった。
  78. 「はい、もうほとんど痛みはありませんし、体調もいいみたいです」
  79. 「歩けるかね?」
  80.  僕は右足の先にそっと力を入れてみた。少し鈍い痛みが走るが、動かないことはなさそうだ。
  81. 「たぶん、大丈夫だと思います」
  82. 「それなら本題に入るよ ・・・・・・ 君も知っているとは思うが、まあ一応規則だから説明させてもらう。ここは内部と外部の紛争における負傷者を収容する施設だ。見てもらえれば分かるが、君と同じような紛争の犠牲者たちが大勢いる。通常なら社会復帰不能者は北のシューティングダストに放り込まれ外部での生活を余儀なくされるのだが、内部と外部の紛争は聖戦と見なされ特別扱いとなる。チャンスが与えられるのだ。君の才能と努力が試されるのだ。
  83.  君にはこれから選択してもらわなければならないことがある。選択肢は七つ。ピエロ、玉乗り、猛獣使い、オートバイ、空中ブランコ、曲芸、綱渡り。原則として選択は自由、どれを選んでも構わないが、団長として性格、平衡感覚、潜在的なものをも含めた運動能力、負傷の度合い、などから適性の高い選択肢を推薦しておる。これは忠告であり、未来を示唆する訓示である。
  84.  ここまでの話で質問はあるかな?」
  85.  疑問だらけの話に質問も何もあるはずがない。僕は文句も言わず、適当に頷いた。
  86. 「劣悪な場合、つまり重度の負傷により著しく運動能力が劣る場合、普通、ピエロか猛獣使いを薦める。ピエロは危険度が少ないので人気も高く、ポストの空きがあまりない。猛獣使いは逆に危険度が高く、失敗すると練習の段階で猛獣の餌となってしまう。君の場合、君の足の状態なら綱渡りをお薦めする。練習は比較的、危険も少なく、サーカスの花形なのでポストの募集や補充も多い。どうかな?本当は慎重に決めることで、規則でも通達から一週間、考慮する期間が与えられておるが、何しろこの状態でな ・・・・・・ 負傷者はわんさかいるし、外部の進攻状況から見てまだまだ増えそうな勢いだ。だから、出来るだけ早く、この場で即決したほうが少しでも有利になると考えた方がいい。もちろん実力がポスト選考の基準となるわけだが、訓練所も定員ぎりぎりの状態でな ・・・・・・ みんな、遊園地に残る最後の藁だから必死になって練習しておる。脅すわけではないが、君も外の世界に放り出されるのは嫌だろう?どうだい、綱渡りにしないか?」
  87.  看護婦は契約書を僕に見えるように差し出した。事のなりゆきを他人ごとのように見守っていた僕も、固く頑丈な紙で作られた契約書を見た。それは知らない文字で書かれていた。三角や四角、考えうるあらゆる幾何学模様が、現代美術風にアレンジされた南半球の甲虫標本のように並んでいた。
  88.  僕が読めないことを告げると、団長は看護婦に記憶喪失なのか、と訊ねた。看護婦はいつのまにか僕の枕元に置いてあった同じような種類の文字がびっしり書き込まれたカルテ(たぶんカルテだろう)を慌てて取り、そのような結果は出ていません、とおいたの見つかった子供のような声で答えた。団長は小声でぶつぶつと呟いた。僕は看護婦に何か悪いことをしたような気分になり、恐縮した。
  89.  団長は仕方がないと言い、看護婦にめくばせした。看護婦はふくよかな胸の右側に付いた小さなポケットから一本の赤い口紅を取り出すと、横になったままの僕の唇に塗り始めた。何か変な気分だった。屈み込んだ看護婦の襟元の奥にブラジャーが覗いた。白くて、緻密なパターンのレースだった。残念ながらその奥は見えなかった。でも何か嬉しい、得した気分だった。唇にてんこもりのリップが重ねられると、看護婦は契約書を僕の顔の上に置き、洗濯したてのようなごわごわとした紙越しに人差し指を添え、そっと撫で回した。やがて、僕の前から紙が退かされ眼前が元の風景に戻った時、契約は完了した。契約書の下段の空白には真赤な僕のキスマークが付いていた。玉乗りの象が落っこちて、間延びした悲鳴が聞こえた。看護婦が最上の笑みでそれに答えた。
  90.  早速、僕はテント小屋を出され、近くにある幼稚園の運動場ほどの十六輪のトレーラーに移された。ひとりでは覚束ないので、団長の肩を借してもらい、右足を引き摺る形でゆっくりと歩いた。猛獣の入った檻や宿舎の迷路のような合間をぬって僕等は歩いた。銀色のジュラルミン扉を開き僕と団長が中に入ると、無数の視線が僕を刺した。目が二百個以上はあった。トレーラーの中には僕と似たような奴等、つまり負傷者や死傷者もどきがごまんといた。片手のないもの、両手のないもの、顔に包帯を巻いたもの、それぐらいはまだましな方で中には頭の半分取れた奴とか、右半分のない奴とかがごろごろいた。そして隅の方には脱落者が大型ゴミに出された亀の甲羅のように積み重ねられていた。眼球の動きから死んでいないようには思えたが、どろんとした目の輝きから生きていることには然したる興味もなさそうな気配だった。
  91.  団長が僕をトレーナーに紹介した。トレーナーは団長と双子のような髭をたくわえ、やはり同じような鞭を右手に持っていた。だが、団長よりは歳が若そうだった。団長は形ばかりの引継ぎ式を終えると、威厳を残しながらさっさと出ていった。扉が閉められ、金属性の高い軋んだ音が閉鎖された空間に響いた。残響は長く残った。明かりは小さな高窓から入ってくる自然光と天井に吊された投光機だけだった。場内は暗く陰気で、汗と水蒸気とその他様々な分泌液によって故障したサウナ室のように湿っていた。お世辞にもおめでたい場所とは思えなかった。
  92. 「注意事項!」
  93.  トレーナーは何かの合図のように床を鞭で叩き、そう叫んだ。何人かの訓練者が反射的にびくっと顔を引きつらせるのが見えた。
  94. 「ひとつ、努力を惜しまないこと。ひとつ、体に覚え込ませること。ひとつ、弱肉強食、淘汰の場であること。ひとつ、最後の砦であること」
  95.  そこまでを選手宣誓のように言うと、トレーナーは少しだけ砕けた口調で僕の肩に手を置きながら、付け加えた。
  96. 「最初は大変だと思うが、慣れるまでが辛抱だ。列の後に並んで順番を待ちなさい。他人のを見ていれば大体のコツは把握できる。それじゃ、頑張りなさい」
  97.  僕はそれに従い、列の最後尾に並んだ。僕のために中断していた練習が再開された。
  98.  一番前の両手が外側に湾曲した男が一メートルばかりある階段を昇り、ピンと張られたワイヤーに乗ろうとしているのが見えた。へっぴり腰でいかにも危なそうな感じだった。
  99.  どうやら本当に僕もやらされるらしい。
  100.  トレーナーはひとりずつ丁寧に個々に応じたアドバイスをしていたが、十メートル先の終点までどころか、真ん中までも行ける奴はいなかった。そして、いかにもやる気のない連中には容赦なく鞭が唸った。
  101.  列は死にかけた下流のように蛇行し、所々には本流に見捨てられた奴等が、澱んだ水を湛えた三日月湖のようにうずくまっていた。誰も本当にやる気のある奴なんていないようだった。誰の目にも明らかに失望した灰色の影が色濃く落ちていた。
  102.  やがて、僕の順番がやってきた。
  103.  僕は右足を引き摺りながら階段を昇り、やっとのことでワイヤーの始まりに辿りついた。そこで精一杯だった。当然のことながら、僕は一歩踏みだしたところで下に落ちた。右足に激痛が走り、脳天まで一気に駆け抜けた。それと同時に背中に鞭がとんだ。トレーナーがもう一度、と冷淡な声で言い、僕はまた列の後まで歩いた。
  104.  その日、僕は背中を何度も打たれ ・・・・・・ 三十回までは数えていたが、後は数える気も起こらなかった ・・・・・・ ひりひりする背中と脈動する鈍痛を抱えた右足を子守歌にしながら横になった。寝床はトレーラーの中で他の負傷者たちと一緒に雑魚寝だった。毛布も敷布団もなく、固く冷たい木張りの床の上で胎児の姿勢で眠った。昼間の練習では一言の口も開かない連中だったが、消灯になるとあちこちから弱々しい囁き声が漏れ始めた。 
  105.   ・・・・・・ あいつよりましだよな、俺には片手があるもの ・・・・・・ そうかな?両手のないほうがバランスが取りやすいって聞いたぜ ・・・・・・ それでかな?俺が三メートルの壁が破れないのは ・・・・・・ そうさ、あいつはまだ不慣れなだけで、すぐおまえを追い抜いて出ていくぜ。それをいうなら、あの半分、脳味噌がぶっ千切れた奴だろう ・・・・・・ 奴、あれだろう?戦地で手榴弾、投げそこなって、小脳と三半規管だけが助かったらしいぜ。もうここに二年と十か月もいるらしいよ ・・・・・・ 猶予は後二ヵ月しかないのかよ。奴のようにはなりたくないな。奴よりは俺、ましだよな ・・・・・・ 
  106.  あちこちで聞かれた囁きの会話を総合し、この訓練所の大まかな仕組みを僕なりに組み立ててみた。
  107.  まず、この訓練所にいられる期間が三年間と限られていること。それまでにワイヤーの終点に一度でも辿りつけばランクアップされた別の訓練所の移されること。出来なければシューティングダスト。シューティングダストは遊園地の最北端にあり、辺りには動物や植物はただのひとつもなく、痩せこけた大地の上には鳥さえも飛ばないこと。ランクアップされた訓練所では実際の高さでの練習になり、それをクリアするともうひとつ上の訓練所に移され様々な芸を教えられること。三段階の試練をすべてクリアするのは百人にひとりも満たないこと。つまり大半はシューティングダストに放り込まれるわけだ。
  108.  僕が目を覚ましたのは深夜だった。浅い眠りが幾時間か続いたのだが、決して深くはならずに目が覚めた。一度目を開けるともう二度とは眠れなかった。辺りは何人かのいびきと歯ぎしりと寝言以外、静まり返っていた。高窓から南中した満月の切れ端が見えた。ぼうっと何も考えず眺めているうちに外に出たいという欲求が不意に訪れ、やがて猛烈に高まった。僕は逃亡を決意した。 
  109.  閂は簡単に外れた。ジュラルミンの扉を静かに開いたが、微かな軋みが音となって漏れた。背後がごそごそし、何人かの訓練者が目を覚ました。嘲るような囁き声と月夜に鈍く光る卑下した眼が僕を突き刺したが、気にも留めなかった。こんなところにいるのはまっぴらだった。
  110.  僕は外に出ると小便をし、右足を引き摺るようにして出鱈目な方向に逃げた。猿や象、名前も分からないような猛獣の鳴声があちこちから聞こえ、夜空に消える道を。途中、柵を跨ぐ時に警報装置らしきブザーと笛の音が聞こえたが、追っ手が来る気配は感じられなかった。僕は背丈ほどもある葦の群生を掻き分け、明かりの見える方へと逃げた。
  111.  途方もなく長い時間が過ぎた。
  112.  明かりは昼間見たあの遊園地だった。深夜でもすべての機械は動き、きらびやかな電飾とけたたましい歓声が遊園地の活気を不滅の物にしていた。僕は人目を避けるようにそっと歩き、人気の少ないベンチに腰掛けた。脱力感が僕を満たした。息を整えた。息を吐くたび全身の力が抜けていくようだった。右足にはもう痛みも何もなかった。太股の付け根から先が借りてきたマネキンのようだった。あるとすれば理不尽な怒りに対する行き場のない悔しさに似たものだけだった。僕はあまりにも疲れていた。
  113.  周りにまったく注意を払わなかったせいか、そのルノワールの裸体画のモデルのように幸せそうな太り方をした婦人警官が近付いてきたことも、まったく気が付かなかった。目の前ににゅうっと体が現われた時は心臓が止まったと思った。
  114. 「テロ防止のため、恐れ入りますが身分証明書の提示をお願いいたします」
  115.  婦人警官は丁寧に、事務的に、そして義務的に、僕に訊ねた。
  116.  もちろんそんなもの、ある訳がなかった。その時、改めて気が付いたのだが、僕の服は漂白した囚人服みたいで、職務に忠実でない警官でも職務質問しそうな風体だった。
  117.  僕は黙っていた。
  118. 「身分証明書をお願いします」
  119.  婦人警官はもう一度同じ言葉を、今度は少し威厳のこもった口調で繰り返した。
  120.  僕はそれには答えず、その代わりに婦人警官を思いっきり突き飛ばしてやった。疲れのピークにあった僕としては最上の出来栄えだった。婦人警官はしこたま頭を地面に打ちつけ、気を失った。
  121.  僕はまた逃げた。
  122.  百メートルぐらい走ったところで背後で甲高い笛の音が聞こえた。僕は復活した足の痛みを堪え、速度を上げた。
  123.  観覧車、ジェットコースター、ゴーカート、ミニチュアの汽車ぽっぽ、射撃場、ボールの的当て、見世物小屋、覗きからくり ・・・・・・ 様々な遊技場の建物の、様々な大小の通路を逃げ回った。地理も位置関係も分からないから、とにかく笛の音がする方向とは逆に進路を取った。同じ場所を何度も通った。
  124.  笛は至る所から聞こえてくるように思えた。半分ぐらいは僕の幻聴だったのかもしれない。そして半分は本物の音だったのだろう。  
  125.  長い時間、僕は走り続けていた。体はへとへとで、下半身が僕の体とは思えないくらいだった。僕はただ惰性で笛の音に反応する僕になった。僕の中には意志や意識や感情と呼ばれるものは存在しなくなった。
  126.  気が付くと、僕は回転木馬に乗っていた。木馬は何度も繰り返される陽気なテープ音楽に従い、緩やかなサイン波を描き、回っていた。木馬は高層ビルのように幾重もの階層に分かれ、バベルの塔のように夜空の彼方まで聳えていた。乗客は僕だけではなかった。僕の分身達、同じ姿で同じ顔をしたクローン達がそれぞれの木馬に乗り僕と同じように回っていた。
  127.  ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる ・・・・・・ 。
  128.  僕は手綱を両手で強く握った。落ちる心配はなさそうだしそんな必要はなかったけれど、自然と力が入った。何故だか分からない。本能的な衝動だ。僕は本能的に降りたくないのだ。この木馬から。たぶん。
  129.  ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる ・・・・・・ 。
  130.  外から僕の知った人の声が聞こえた。友達、両親、親類、思い出せない人。姿は見えないが、確かに聞こえる。電飾の向こう、地面の下、満月の花咲く夜空の向こう。あちこちから聞こえる。何を言っているのだろう?口々にみな叫んでいる。耳が痛い。頭の中がぬるぬるしてきた。
  131.   ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる ・・・・・・ 。
  132.  僕の体内でも幾つもの回転木馬が回っていた。連動し、共振し、反作用し、回り始めたのだ。血液やリンパ液や組織液をレールにした複雑に絡み合った無数の回転木馬達。うねり、逆らい、ぶつかり合い、交錯し。
  133.  ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる ・・・・・・ 。
  134.    僕の意識は退行し、進化を逆行し、とてつもなくどうしようもない深淵に陥った。
  135.  僕の脳髄、僕の体液。
  136.  僕の細胞、核、染色体、遺伝子、DNA、螺旋構造、暗号のような迷路。
  137.  ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる ・・・・・・ 。
  138.  果てしない延長戦のような感じ。
  139.